いま話題の映画、「風立ちぬ」を見てきた。
自分達の世代は、少年雑誌のゼロ戦の活躍に心を踊らせ、出始めのプラモで翼に水に濡らせた日の丸のシールを真っ直ぐに貼るのに苦心した記憶がある。そんな中で、今回の九六艦戦の存在は知っていたけど、どちらかといえば旧式の存在、格好良さとは程遠い時代遅れの存在というイメージだった。それを、技術後進国の日本がどの様にして作り上げ、次の世代=ゼロ戦につなげていったのか、という知的な興味という意味ではそれなりに得るところがあった。だけど、映画の感想としてはいささか焦点が定まらない感があったのは事実。牛車とハイテク兵器の取り合わせについても、
吉村昭で既に確認済みだったし。
終映後の観客の声が聞こえて来た。
“何が言いたいの?”、“中途半端”云々と。
自分にも些かの共感があった。
自転車冒険家の
石田ゆうすけ氏のいう“既視感”、“人を選ぶ映画”、“宮崎駿に何を求めるか”みたいな整理した言い方はできないが、残念ながら冒頭の知的な興味以外に新鮮さは感じなかったのも事実だ。
何よりも、皆が言っている様にどこかで泣けるかとある部分期待していたんだけど、その機会がないままにいつの間にか終わってしまったのは肩透かしみたいな感じだった。自分の老化と感受性の衰えをわきまえつつ敢えて言わせてもらえば・・・だけど。